「静けさとは何か」
前回の記事では、その輪郭について語ってきた。
今回は、その静けさがどこに存在しているのかを探してみようと思う。
これまで、ずっとモノクロ写真を撮り続けてきた。

その理由はシンプルなもので、街を歩いて出会った「静けさ」を表現したかったからだ。
モノクロ写真は、色がなくなると情報は減り、華やかさも、賑やかさも、感情の強さも少しだけ遠ざかる。
その代わり、音の少ない静かな時間を感じることができる。だからずっと、『静けさ=モノクロ写真』そう思って撮り続けてきた。
けれど、心のどこかでずっと感じていた違和感もあった。
「何かが、まだ足りない」
モノクロは確かに静かだ。でも、それだけでは自分の見ている世界のすべてを表現しきれていない。
街を歩いていると、当然だけど人がいる。
誰かが待ち合わせをしていて、
誰かが急ぎ足で通り過ぎ、
誰かが何気ない日常を過ごしている。
そこには、“存在”というものがある。
光、温度、気配、感情。
色を持った現実の物語。
それはモノクロではなく、カラーだから感じる世界である。
そう思っていると、ある時、あることに気がついた。

「自分が撮りたかったのは、モノクロなのか?それとも、カラーなのか?」という、単純なものではないことに。
同じ場所に、ふたつの時間が存在してもいいんじゃないかと。
つまり、モノクロだけで表現しなきゃいけないわけじゃない、カラー写真にも自分が表現したい世界がある。
カラー写真には、人の存在がある。
誰かがそこにいて、生活があり、物語が生まれている。
それは映画のワンシーンのように、日常が静かに動き続けている世界だ。
そして、モノクロ写真には人の存在はないが、静けさがある。
正確には、「人の気配だけが残っている」と言った方がいいだろう。
通り過ぎたあと。
誰もいなくなった場所。
音が消え、時間だけが漂っている瞬間。
そこには、『静けさと余韻』という時間が流れている。
つまり同じ街でも、
カラーは『存在している時間』。
モノクロは『存在が去ったあとの時間』。
この2つが同時に並行して存在する写真があってもいいだろう。
『MONOCHROME DAILY』というシリーズは、モノクロ写真を並べるための名称ではない。
日常の中にある、もうひとつの時間を見つけるための記録でもある。
カラーの世界が現実なら、モノクロの世界は余白なのかもしれない。
人が生きている時間と、静けさだけが流れる時間。
その両方が重なって、はじめて、coaPHOTOの世界が完成する。
だから、これからは「色を取り除いた写真」だけを届けるだけじゃなく、もう一つの時間を、そっと届けようと思う。

そしてきっと、カラーとモノクロは対立するものではなく、同じ世界を別の呼吸で見ているだけなのだと感じてもらいたい。
この『MONOCHROME DAILY』シリーズは、静けさを探す旅ではなく、日常と静寂が共存していることを確かめるための記録である。
これからは、同じ場所に流れているもうひとつの時間を探しにいこうと思う。
MONOCHROME DAILY 〜日常の中に流れる、もうひとつの時間の存在〜
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