写真家として生きる価値|それでも、撮り続けている理由

「写真で食べていけてるの?」

こんな言葉を、何度聞かされたことだろう。
その問いに、うまく答えられなかった時間がある。

写真を撮っていることは確かで、
作品として発信もしている。

それでも、その一言を前にすると、
なぜか言葉を選んでしまう自分がいた。

それはきっと、

写真家であることを、
いつの間にか「説明しなければならない」と思い込んでいたからかもしれない。

『収益=写真家』なのか?

「写真家と名乗るには、
写真で収益を得ていなければならない」

いつの頃からか、
そんな空気が当たり前のように漂っていた。

けれど、
それが本当に写真家の本質なのだろうか?

収益は、写真の価値を測るひとつの結果ではある。
だけど、写真家であるかどうかを決める唯一の条件ではないはず。

写真を撮らない人が作った物差しで、
写真家という存在が測られるようになっただけだ。

写真家の本質とは

もし、自分の写真を、
ただの記録ではなく『作品』として差し出しているなら?

誰かに頼まれたわけでもない、
評価される保証もない、
それでも自分の表現として発信しているとしたら?

僕はこう思う。

「それはもう立派な写真家だ」

仕事になっているかどうか。
展示をしているかどうか。
肩書きがあるかどうか。

それらはすべて、後からついてくる話であって、
『収益=写真家』が全てではない。

『写真家=作品と向き合う人』

写真家とは、職業というより
世界(作品)との向き合い方に近いと思う。

光の入り方に足を止めること。
人との距離感に敏感でいること。
静けさや余白に、意味を感じ取ること。

シャッターを切る前から、
写真はすでに始まっている。

カメラを持っていない時間も含めて、
どう世界を見ているか。

そこに、写真家としての姿勢が表れる。

理解されないことと価値は違う

「それでお金になるの?」
そんな問いを投げかけられたとき、
無理に答えを用意しなくていい。

その質問は、
自分の価値を測るためのものではないから。

理解されないことと価値がないことは、
まったくの別ものだ。

他人の理解の範囲で、
自分の表現を小さくしなくていい。

写真を経験していない人の言葉で
自分の世界を崩さなくてもいい。

相手にとって『理解』を求める必要はない。

なぜなら、
『理解』と『価値』は別物なのだから。

写真家としての『価値』

評価されなくても、収益につながらなくても、
それでも写真を撮り続けてきた時間があるなら、
その時間こそが、写真家として生きてきた価値だと思う。

才能よりも、
結果よりも、
続けてきたという事実は、
静かだけれど、確かな価値を持っている。

自分が誇れるもの、
それが『写真家としての価値』なのだから。

「僕は、なぜ今も写真を撮っているのだろう?」

誰に見せるためでもなく、
誰に認められるためでもない一枚。

それでも残したいと思うのはなぜだろう?

もしそれが「その瞬間を撮りたかった」なら、
その答えは、ずっと前から出ていたのかもしれない。

静けさを感じる、もうひとつの世界へ。

静けさを感じる、
もうひとつの世界へ。

関連記事

TOP